他人の行動や言葉を何て解釈するかはどうでも良いと思うのだけど、語られていない部分に意味を付けてもそれは自分を通したものに過ぎないのに、まるでその人の真実みたいに吹聴するのは、冒涜的な行いだ。
自分の感情を押し殺そうとしていたときに、「何かを拒絶している目をしている」と言われた。
そういう風に見えたのか。と思った。わたしが拒絶しているのは、どちらかというと、あなたではなく自分自身です。
もがくのは疲れる。だから、一人でいることを選択するか、もがいても一緒に居たい人とだけ一緒に居ることを選択するかになる。一緒に居たい人は少ない。それで構わないと思ってる。
もうよくわかったから。
大丈夫だから。
うん。うん。
そうだよ。
もう、いいんだ。
わたしの拒絶は、こういう形をしている。
パニックになる必要はない。だけど、「今」に押し潰されてしまいそうだ。あらゆるものが近すぎる。離れる必要がある。焦燥感を信じるな。自分の感情を信じるな。「今」は。
パニックになる事はない。それは知ってる。ただ、確認したくてたまらない。大丈夫だってことを。
「生きていることの素晴らしさ」をわたしはわたし自身の感覚としては、その言葉を実感していない。これは自分の主観では感じ取ることができない感覚なのだと思う。
きみが生きているのを見たり、動物が生きて動いているのを見たりすると、生き物が生きていることの素晴らしさを感じる。ただ生きているという事実に、何に対してかはわからない感謝のような感情すら覚えることがあります。